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三原高校の昭和29年(1954年)甲子園出場を振り返る| 第36回全国高等学校野球選手権大会

※この記事はMJ2018年春の特別号に掲載した『昭和29年(1954年) 三原が熱く燃えた夏~三原高校甲子園へ~』を、一部改編し再掲載しました。

まえがき

 娯楽の少なかった大正後期・昭和初期から、様々なエンターテインメントが溢れる平成の世も、変わらず国民的人気を誇る高校野球の甲子園大会。春の『選抜高等学校野球大会』は、この春で90回目。夏の『全国高等学校野球選手権大会』は、この夏で100回目を迎える。今、三原市民に「三原の高校で甲子園に出た学校は?」と聞くと、春1回・夏7回出場の如水館が一番に出てくる名前だろう。本郷の総合技術も平成23年(2011年)の選抜大会に出場し、同年夏に出場した如水館と共に、春夏連続で三原の高校が甲子園で戦った。平成に入ってからは、合計9回の甲子園出場がある三原の高校だが、昭和も1度だけ甲子園出場がある。昭和29年(1954年)の夏に出場した三原高校だ。実に今から64年も前のことだが、その甲子園に3番レフトで出場された松本勝雄さん(当時3年生)、1番センターで出場された五藤康之さん(当時2年生)のお二人に当時の事を伺うことができた。そのお話と共に三原高校の戦いと、その活躍に沸く三原市民の熱狂を振り返る。

創部…そして甲子園へあと一歩

 夏の甲子園出場は、昭和52年(1977年)までは現在の1県1代表制ではなかった。年代ごとに中国地方内での予選の地区割りや大会名も異なる。三原高校が特に活躍した昭和23~30年当時は、まず広島県の代表(ベスト4進出の4校)になったのち、山口県の代表(同じく4校)と西中国大会を戦い、それを制すれば甲子園に出場できるという方式であった。戦後間もない昭和21年(1946年)に創部した三原高校野球部。当初はグラウンド・野球道具など練習環境を整備することに苦労したが、父兄や地域の支えもありながら、寺田監督と中田部長のもと、力をつけていった。昭和25年、広島県大会準決勝で盈進商業(現・盈進)に敗れるもベスト4進出により、西中国大会への切符を初めて掴んだ。その西中国大会では初戦を宇部に11-2で勝利。準決勝では県大会で敗れた盈進商業と再戦し4-2で勝利。いきなり決勝まで進む。しかし三原と同じく甲子園初出場を目指す呉阿賀に3-6で惜敗し、あと少しのところで甲子園出場を逃す。その2年後の昭和27年。再び西中国大会に出場し、初戦で下関東、準決勝で防府を撃破し、決勝進出。しかし柳井商工に惜敗し、またしても甲子園出場を逃したのだった。

強さの秘密は

 創部からあまり年数を経ずに甲子園が手に届く成績を残していたが、公立高校で当時から進学校だった三原高校は部員が多くはなかった。しかし夏に照準をあわせて春先から猛練習したため、夏に強かったのだ。

「人数が少ないからこそ、効率のよい練習ができていた。自分がいた時は18人くらいの部員で、ちょうど2チームぶんだったからね。真っ暗になるまで練習しとった。(松本さん)」

また、昭和25年のエース小林靖臣投手が阪急ブレーブスに進むなど、伝統的に良い投手が育成されていたという。昭和29年も好投手の恵川康太郎投手(のちに広島カープでプレー)がいた。その恵川投手が春先に肩を痛めたため、チーム内に暗雲が漂うも、すぐに2年生の山沖儀行投手が台頭し、ついに悲願を達成する。

万事休す…から掴んだ甲子園

 広島県大会では1回戦から準々決勝までの4試合を大勝し、準決勝進出。この時点で西中国大会出場を決め、準決勝で強豪の広陵に1-0で勝利。決勝では広島観音(現・広島商業。※戦後、広島商業は一時廃止され、生徒は観音と基町の商業科に編入されていた)に1-0で勝利し、広島県を初めて制したのだ。

 広島県王者として臨んだ3度目の西中国大会。1回戦は「カチカチに緊張した(松本さん)」という中で、防府と対戦。点を取り合う展開は6-5でリードされ、三原の攻撃も9回裏二死。打者の打ったボールはショートへのゴロ。ショートがキャッチした時に「ああ、終わった…(五藤さん)」と敗戦を覚悟した瞬間、これをショートがまさかの悪送球。これをきっかけに逆転サヨナラで初戦を拾う。

「あのサヨナラ勝ちで気持ちが楽になって、あとはスイスイいった。(松本さん)」

 準決勝は県大会決勝で勝利した広島観音と再戦。山沖投手の好投で2-1の勝利。甲子園へ3度目の挑戦権を得た。決勝戦の相手は県大会準決勝で下した広陵。先制を許すも、3回に2点を入れて逆転したあと、さらに恵川選手のホームランで1点追加。

「あのホームランで勝てると思った。(五藤さん)」

6回に1点を返されるが、リードを守りきり3-2で勝利。ついに甲子園の切符を手に入れたのだ。
準決勝・決勝は広島大会で勝った広陵と広島観音と再戦。相手は「やり返す」という気持ちでくる中、再戦は嫌ではなかったかと松本さんに聞くと、「たしかに広陵と広島商(観音)は強かったけど、あんまり怖い投手がいなかったから自信があったよ」

堂々の優勝である。

西中国大会優勝

歓喜の三原駅前

 試合後に三原に戻った三原高校ナイン。優勝報告会で選手達は三原駅舎の屋根の上に上げられた。その眼前には驚きの風景があった。三原駅前を埋め尽くす人・人・人。新聞社の発表では約1万人がナインを祝福するために集まったという。

「さすがに1万人は大げさな気がするけど、それでも本当にいっぱいの人。熱狂的でもの凄かった。その後はトラックの荷台に乗っての凱旋パレードで、三原駅から本郷まで走ったよ。(五藤さん)」

トラックの荷台に乗って市内をパレード
駅舎に上がって優勝報告会
1万人の市民が押し寄せたという

大きかった甲子園。大応援団のサポートを受けて戦った初戦。

 西中国大会決勝から、ほどなくして乗り込んだ夢の甲子園。まだテレビが普及していなかった当時の情報源はラジオと新聞で、甲子園が実際にどんな大きさなのか映像を見た事がなかった選手達。今と同じく行われていた大会前の甲子園練習で初めてグラウンドに入り、その大きさにみんな驚いたという。

「最初はグラウンドよりスタンドの大きさばかりが目についた。芝は綺麗に刈ってあり、ボールが捕りやすい。まるで絨毯の上を走っているようで素晴らしいグラウンドだった。(松本さん)」

開会式での入場行進
満員の甲子園でプレーした

迎えた開会式では約5万人の大観衆のどよめきの中で入場行進。

「行進の順番が3番目だったので、入場する前は超満員のスタンドが見える場所で30分以上待機させられた。そこで心を落ち着かせることができたので、緊張せずに楽しく行進できた。(松本さん)」

「緊張よりも気持ちよかった。本当に甲子園に出られたんだと感じた。(五藤さん)」

初めて胸に『MIHARA』のユニフォームが全国の大舞台に登場したのだ。

 初戦が2回戦からの登場となった初陣の西中国代表 三原高校。三原からも約1,500人の市民が15両編成の特別列車で選手たちの雄姿を見ようと駆け付けた。OBが協力してブラスバンドも結成されたという。対戦相手は第1回大会の準優勝校で奥羽代表の秋田高校。大会屈指の好投手である青山投手を擁し、前評判の高かった強豪である。しかし初陣の三原高校は青山投手に10安打を浴びせ5-0で快勝する。

「青山投手は好投手と聞いていたけど、この日は調子が悪かったのかな。3安打し、勝って気分よく校歌を歌った。(松本さん)」

松本さんは5打数3安打。五藤さんは4打数1安打で勝利に貢献。2年生の山沖投手は完封であった。

アルプス席を三原の大応援団が埋める
秋田戦で打席に立つ松本さん

初陣VS超名門

 23校が出場した大会で2回戦から登場の三原高校は、初戦の次が準々決勝となる。その対戦相手はくじ引きの結果、優勝候補で愛知の中京商業(現・中京大中京)と決まる。松本さんはそれを聞いた時にガックリきたという。それもそのはず。中京商業は高校野球100年の歴史の中でも甲子園で優勝回数・勝利数が最も多い高校で、昭和29年時点で既に夏4回の優勝を経験しており全盛期であった。しかも試合は3日も雨で順延され、初出場の三原ナインを苦しめる。

「あの雨で調子がくるった。(松本さん)」

「コンディション調整に苦労した。(五藤さん)」

 試合は2回までに7点を失い、その後も失点し6回終えて0-14。8回に1点をかえすも1-14でゲームセット。14被安打に4失策も絡んでしまい、残念ながら完敗となってしまった。相手の中京商業は、のちに中日でプレーする中山俊丈投手らの活躍で、そのまま優勝したのだった。

中京商業戦で力投する恵川投手

期待された連続出場

 翌年の昭和30年。五藤さん、山沖投手ら甲子園経験者が複数いた三原高校は、当然のごとく連続出場を目指す。2回戦(初戦)は呉宮原に4-2で勝利。3回戦は呉港に2-1で辛勝。準々決勝は広陵に9-2で完勝。準決勝は広島商に2-3で敗戦。しかし準決勝進出により、西中国大会出場を決め、甲子園連続出場まであと3勝とする。
 西中国大会1回戦は山口の豊浦に2-1で辛勝。準決勝は山口の強豪・下関商業に5-3で逆転勝利し決勝進出。この報せを受けた後援会やファン数百人が、三原駅から夜行列車で大会会場の下関に乗り込んだという。
 決勝の相手は決して前評判の高くなかった岩国工業。「下関商業に勝った勢いで今年も行ける!(五藤さん)」と思ったのがいけなかったのか、勝負とはそういうものなのか、三原は毎回のように走者を出して攻め続けるも、失策と岩国工業の効果的な攻撃に4-8で敗れ、惜しくも2年連続の甲子園出場はならなかった。三原市内では甲子園出場を期待し、祝賀の提灯行列用の提灯をたくさん準備していたが、使われることはなかった。

三原高校のその後…

「またすぐに甲子園に行けると思っとったんじゃけど…。(松本さん)」

昭和31年は現・竹原高校監督(前・如水館監督)の迫田監督が当時2年生でプレーしていた広島商業に県大会3回戦で敗れ、西中国大会進出ならず。
昭和32年は2年ぶりに西中国大会に出場するも初戦敗退。
昭和33年から、広島県は県の優勝校がそのまま甲子園へ出場できることになったが、それ以降、昭和33年(1958年)と昭和63年(1988年)のベスト4が最高成績で、甲子園は遠い場所となっている。

三原高校 栄光の戦績

昭和29年(1954年)

広島大会1回戦三原11-3日彰館
広島大会2回戦三原15-0神辺
広島大会3回戦三原8-3府中
代表決定戦三原10-3忠海
準決勝三原1-0広陵
決勝三原1-0広島観音
西中国大会1回戦 三原7-6防府(山口)
西中国大会準決勝三原2-1広島観音
西中国大会決勝三原3-2広陵
第36回全国高等学校野球選手権大会2回戦(甲子園)三原5-0秋田(奥羽・秋田)
第36回全国高等学校野球選手権大会準々決勝(甲子園)三原1-14中京商業(愛知)

昭和30年(1955年)

広島大会2回戦 三原4-2呉宮原
広島大会3回戦 三原2-1呉港
代表決定戦 三原9-2広陵
広島大会準決勝 三原2-3広島商業
西中国大会1回戦 三原2-1豊浦(山口)
西中国大会準決勝 三原5-3下関商業(山口)
西中国大会決勝 三原4-8岩国工業(山口)

取材にご協力くださった、当時の甲子園出場メンバーお二人

松本勝雄さん
三原高校では3番レフトで活躍。社会人野球時代には、後楽園球場での都市対抗野球にも出場された。
五藤康之さん
2年生で甲子園出場。秋田戦、中京商戦でそれぞれ1安打を放つ。のちに三原市長も務められた。

おわりに…

 小学生の時(昭和63年・1988年)に広島商業の全国制覇を甲子園で観て以来、すっかり高校野球の虜となった。しかし甲子園に出場するのは広島市の高校ばかり(平成元年に近大福山が出場、たまに西条農業)で少し物足りない気も。祖母から「昔、三原高校も出た事あるんよ」と聞いていたが、スコア以外に詳しいことはわからない。21世紀に入り、インターネットが普及した今も当時の情報はさすがに少ない。もちろん動画などない。となると、当時の三原高校の選手に話を伺うしかないと思っていたが、ついに実現した。お忙しい中、快く取材に応じてくださった松本勝雄さんと五藤康之さん。三原のレジェンドお二人に貴重なお話をしていただき、感謝しかありません。この特集で当時の三原高校の活躍を、現在の三原市民の皆さんに知ってもらう、よい機会になればと思います。(MJ編集部 住田慶二郎 2018年4月)

参考資料/三原高等学校野球史、にっぽんの高校野球 地域限定エディション 中国編(ベースボール・マガジン社)、地域別高校野球シリーズ 中国の高校野球(ベースボール・マガジン社)

写真提供/松本勝雄さん、五藤康之さん

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